FUKUSHIをするワケ

  中学生の頃、聴覚障害のある方との出会いをきっかけに「会話がしたい」という思いで手話を覚えました。手話を覚えて会話ができたとき、二人の間にあったよくわからない「障害」というものはなくなっているように感じました。
「世の中の人がみんな手話を覚えたら、聴覚障害のある人のコミュニケーションの壁はなくなる」と思いました。でも、学校教育に「手話」という授業はないし、やっぱり世間で障害者と呼ばれる人はどこか生きづらそうだと感じて居ました。
中学生の私は、手話を覚えることで簡単に「障害を越えた」と思っていました。問題の核は、障害者を含めた「マイノリティに対していかに世間の目を向けさすことができるのか」だと思いました。 そして、当時感じた障害者との間にある壁みたいなもの。その壁を越える一歩自体は大して大きくもなんともない。と中学生時代に感じました。
 高校は介護福祉士のとれる高校に行き、大学は社会福祉士と精神保健福祉士のとれる大学に行きました。色んな人から学び、障害福祉の現場で経験を積む中で「就労支援」という分野に興味を持ちました。
 障害福祉における就労支援の現場に求められるのは「福祉+α」だと大学生の頃思いました。 例えば「農業と福祉」「製造業と福祉」「飲食業と福祉」など。大事な事は、そのαを中途半端に始めないこと。
何より、自分自身に福祉+αが必要だと強く感じました。
福祉施設を3年で辞めて、私はその+α「MURAOKOSHI」ビジネスの力を付けようと福祉の現場を離れました。

MURAOKOSHIをするワケ

私は静岡県藤枝市の山間で生まれました。実家は現在父が4代目のタケノコ農家です。
小さなときから春先は、家族総出でタケノコ掘り。春の食卓は基本タケノコ三昧。
当時は外食に憧れてましたが、今思えば、旬の美味しいものばかり食べることのできる最高に贅沢な食卓でした。
小さい頃は、近所のお兄ちゃんが遊んでくれたり、登下校中に知り合いのおじちゃんおばちゃんが車で通れば乗せていってもらったり、地域の交流もあり本当に大好きな地元でした。
しかし、私が18歳の頃当時「岡部町」だった町が合併して「藤枝市」になりました。当時は名前が変わっただけ。くらいに捉えていました。
ただ、徐々に地域から人口が減っていることや産業が衰退していくことを肌で感じてきました。この先、どうなってくの?って少し不安になりました。
大学卒業後、地元に帰り家から一番近い障害福祉事業所に勤めました。実家に住んでいたので、同時に実家のタケノコの手伝いをすることもできました。地元の祭りにも参加することもできました。
地元の仲間と竹で筏を作ったり、竹キャンドルを作ったり、地元の名も無き山を登りまくったり。自分のしたい仕事をして、休日は地元をフル満喫!正直、めっちゃ楽しかったです。ここ最高!って何度も思いました。
ただ、これでいいのか~・・・。
楽しんでるだけじゃん・・・。
と、自問自答する自分が出てきました。
自分は大好きな地元に何も出来ない。もっと成長したい。それが、地元を離れる一番のきっかけでした。
そして、2015年4月から和歌山県日高川町の地域おこし協力隊として、和歌山で0から「地域おこし」について学び、小さな実践を繰り返してきました。
色んな経験をしていく中で、自分の中のMURAOKOSHIを少しずつ確立してきました。
そして今、地域に必要なのは「事業」であることに気づきました。いかに質の高い事業を多く作れるかです。
いかに地域の資源を活用して、お金を回し、人を繋ぎ、地域を支えるか。これです。

FUKUSHI×MURAOKOSHI始めます

自分の描いていた事業モデルを一緒にやって下さる事業所が見つかりました。
それが日高川町にあります 株式会社松山・就労支援施設B型事業所ゆうです。
2018年4月に会所したばかりということもあって、これからの施設です。
自分の全てを捧げて、FUKUSHI×MURAOKOSHIの新しい地域ビジネスのカタチを作っていきたいと思います。